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誰かに助けを求めること~家族だけで抱えこまないで~

困った時は、どうするか

普段の生活を送るとき、本人か家族単位で考えていることが多いと思います。
でも何かが起こった時や困った時には、1人で悩まず、他の誰かに助けを求めることが大切だと感じています。
5年前、私の母がサービス付き高齢者向け住宅に入居した頃に、実感したことをお伝えします。
母は昭和6年生まれ。87歳まで自宅で1人で暮らしていました。

母の自宅での生活

母は80歳を過ぎた頃から、だんだんと体の動きが悪くなってきました。
自宅での暮らしは、私のサポートと共に、ヘルパーさんに介護サービスをお願いしていました。
週1度の掃除から徐々に、入浴の見守り、入浴介助と、サービスを増やして行きました。
支援が必要なことが急に増えてきた状態に「地域包括支援センター」のケアマネジャーさんが気付いてくださり、介護認定の見直しの申請をしました。
介護保険でのサービスを多く受けられるようになり、デイサービスにも行くことができました。

食事は業者さんから、お昼にお弁当を届けてもらい、晩御飯は自分で作って食べていました。
でも段々と食事が作れなくなったのです。立って調理するのが辛くなった様子でした。
そこで私が「お届け晩御飯」と言って、食事を届け始めました。私の家は母の所まで、車で5分ほどの距離です。最初は、おかずだけでしたが、定食のように1食分のご飯とおかずを、お盆に載せて運ぶようになりました。
夕食を毎日、食卓に届けて2年が過ぎた頃。母の心臓の具合が悪くなり、片付けができなくなりました。

私は家族の夕食を作った後に、母へ食事を届けて見守り、片付けをし、母が寝てから自宅に戻るという生活を数ヶ月間続けました。
その頃の様子を今、息子と話すと「お母さん、夜は家にいなかったよね」と言います。

突然の出来事

この生活が毎日続き、午前中にも母の様子を見に行くようになりました。
母と一緒に住もうかと、家族で考え始めていたある日、生活が一変する出来事が起きました。
私の次男が、くも膜下出血を起こしたのです。2019年2月1日朝、突然のことでした。

救急車で病院に運ばれて診断を受け、次男と私は、すぐにまた救急車で神戸の病院へ行くことが決まりました。
悪天候で消防防災ヘリコプターを使えないと分かり、緊迫した状況でした。私以外の家族は、車で神戸に向かうことになりました。
搬送の準備を待つ間、次男の容体の心配と共に
「母の世話をする人が居ない、今夜からどうしようか」と頭の中が混乱していました。母の身内で近くに住んでいるのは、私だけです。
母はインフルエンザで入院し、退院して3日目、体力も落ちていたので余計に心配でした。
ちょうどその時、母が私の携帯電話に電話をかけて来ました。
「体がしんどい」と。
次男の容体を話し、そして母に対して私がかけた言葉は
「おばあちゃんは、どうにかして生きていて」でした。
後で考えると究極の言葉です。


救急車で神戸に着いてから、地区の区長さんに電話をかけ、母の事をお願いしました。
母は自分で、かかりつけの診療所に電話をかけていました。それで看護師さんが、ケアマネジャーさんに連絡してくださったそうです。
そうしてヘルパーさんをはじめ、周りの皆さんが母の元に来てくださり、生活を助けていただきました。

その日のうちに次男は緊急手術を受け、命を取り留めたのです。数週間後、容体が落ち着いてから豊岡の病院に戻りました。
その後リハビリを重ね、半年後には退院して自宅に帰ることができました。今では1人暮らしができるほど回復していますが、当時は退院後の通院やリハビリが続いていました。

母は、その同じ半年間に心臓の発作を2回起こし、救急搬送されました。ペースメーカー埋め込み手術を決断し、その後は発作を起こす心配は無くなりました。
家族2人が同時期に発病、入院、手術。それに伴う大きな決断の繰り返し。あの頃の私は、ただ毎日、自分ができる限りのことをしようと必死だったと思います。

ケアマネジャーさんの言葉

母が1度目の緊急入院をした時のこと。
点滴で発作は落ち着き、体調を整えるために、他の病院への転院を検討していました。

「そのまた次に、どこに行くかを考えておいてください」と病院のソーシャルワーカーさんから伝えられました。
転院して体調が整った後に、自宅に帰るか、施設に入居するかです。ケアマネジャーさんからは、サービス付き高齢者向け住宅への入居を提案されていました。

「母は自宅に帰りたいだろうし、以前のように食事を届けられたら。でも夜中が心配だなぁ」
私は、そんな風に考え、決めかねていました。

数日後、ケアマネジャーさんに
「母を家に連れて帰っても、世話が出来ると思うんです」と伝えました。

その時、私の頭の中では、朝から晩までぎっしり予定を入れたら、母と次男のサポートと、家事ができると考えていたからです。

するとケアマネジャーさんが
「それは無理ですよ」と優しい声で言ってくれました。

あぁ、そうなのか。
やっぱり無理か。入院前でも既に、時間が足りないくらいだった。
と納得し、心が少し落ち着きました。

母の生活環境が変わって

母の足腰が弱っていて、段差の多い家では暮らしにくいこともあり、母自身もサービス付き高齢者向け住宅への入居を希望しました。
夜間も職員さんが常駐していることと、食事の心配をしなくて済むことで、私の母への心配事が少なくなります。

急いで見学に行き入居が決定し、母は退院後、そこで暮らすことになりました。私は母の様子を毎日見に行けなくても、安心していられます。

母の生活環境は、その時からガラリと変わってしまいました。
母にとっては思い通りにならないこと、我慢している事も多々あるようです。

そんな様子を見ていて、私の心の中で複雑な思いを感じる日があります。
「これで良かったのかな」と。

そんな時、思い出すのが当時のケアマネジャーさんの
「それは無理ですよ」の言葉と、いつもの優しい表情です。

あの言葉が無ければ
私はもっとずっと、1人で無理を重ねていたかもしれません。

心を開くこと

「介護に疲れて」や「家族1人が抱え込んでいて」などが原因と思われる、とても不幸な事件が報道されることがあります。そういうニュースを聞く度に、何かのサポートが入っていたら違っていたのでは?と、思います。

福祉サービスを受ける時に「家族以外の人」が生活圏に入ってくることは、最初は抵抗があるかもしれません。
でも、その人は家族の生活を助けてくれる「とても重要な人」になる可能性が高いのです。
困った時に、誰かに助けを求めることや、公的なサポートを受けることをためらわないでほしいと思います。

家族だけで抱え込まずに、専門の窓口に相談したら、知らなかったサポートが受けられるかもしれません。
考え方を変えると、心も体も楽になり、結果は良かったと思えるかもしれません。
福祉を考えるとき、家族だけの問題だと思わないことが、まず大切なのではと実感しています。

「本人と家族だけで無理をしないこと。心を開いて誰かに助けを求めよう。きっと良い方向に進むから」
それが、今何かで悩んでいる人に、私が伝えたい言葉です。

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kokoron

お花を育てるのが好きな主婦です。 数年前に10代で脳卒中を発症した息子と、 高齢で車椅子ユーザーになった母と、 骨折後、体調を回復してきた義母のサポートをしています。 そんな毎日の中で、人に助けてもらう有難さを知りました。小さな気づきを発信できたら良いなと思っています。

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